▲ [column] 完璧すぎるあゃゃゆえの心配 / 2002.4.30
「サイボーグアイドル」。あまりにも完璧に作られたキャラとアイドル性のために松浦亜弥はこう呼ばれた。

ありとあらゆる番組において、そのキャラクターぶりは徹底されている。一片の隙も見せない完璧さ。視聴者にはもちろん、共演者にも、スタッフにすらも悪く言えばゴマすりとも取れる行動をとる。
「全てはキャラとしてやっていること。最初から徹底したキャラ作りをしているのだから問題ない。」と私は思っていた。しかし、どうも最近そのキャラ作りがやりすぎのように思えてならない。あれは本当に純粋にキャラ作りなのだろうか?

いや、おそらく子供の頃からそうしていたのだろう。常に親に、周りの大人に自分のいい子ぶりをアピールしてきた。そうすることで、いい子で誰からも愛される自分を作り上げた。自分がかわいいことを誰よりもよく理解し、そしてそのかわいさこそが自分自身の最大の武器であることもよくわかっている。それを最大限に利用することで自分の身を守り、周りの人間から大事にされるといったいわゆる護衛術を身につけてきた。

だからタレントとなった今でも自然とあのような行動が出てくる。一見ガチガチのキャラのように見えるが、其の実本人にとってはいたって自然な行為なのだ。自然な行為だから計算ではない。計算ではないが、本能的にどうすれば周りの人間が自分に夢中になるのかということがわかっているのは確か。幼少の頃から培ってきた護衛術を前面に押し出すことで、周りが自分を大事にしてくれることが経験上わかっている。

しかし、逆にそこが恐ろしいし危険である。

そういった行動がかわいく見えているうちはいい。何の問題もない。しかしこの行動は一歩間違えると自分の身を滅ぼす諸刃の剣となりうる。過度のキャラ作りはただのゴマすりアイドルになりかねない。鼻につくようになったら終わりだ。ひとたびそういったことが視聴者側に伝わってしまったときは、一瞬のうちにあゃゃのタレント人生は終わりを迎えるだろう。

また、最近の番組の演出の仕方にも大いに問題がある。あゃゃはすさまじい勢いで売れっ子アイドルの仲間入りを果たしてしまった。苦労が続いた娘。とは対照的である。よって増長してしまう可能性も非常に高い。

私は以前、アイドルに下積み時代は必要ないと言った。下積みは必要ないが、初心を忘れてはならない。いくつになっても、どんなに売れっ子になっても謙虚さは絶対必要だ。もちろん、今のあゃゃには謙虚さが感じ取れるし、こういった行動が鼻につくことはまだない。しかし、芸能界デビュー1年足らずで、ここまで回りにチヤホヤされるのは異常なことだ。そういった周りの人間の行動が、あゃゃが増長する要因となりうる。

あゃゃのことであるから、そんな情けない終わり方はしないと私は思っている。だが、私の中にこういった心配があることもまた事実だ。

私はあゃゃが大好きだ。いつまでもタレントとして、そして歌手として成功してもらいたい。現時点において、私の中であゃゃがいなくなることは考えられないし、ありえない。だからこそ最近の番組側のいきすぎた演出は恐ろしいし、間違った方向に行ってしまわないかと強く思うのだ。

あゃゃがその完璧なる自衛本能で、こういった私のくだらない心配なんぞ払拭してくれることを強く信じてやまない。

BACK