▲ [column] 「NULL」としての存在 / 2004.2.11
安倍なつみがソロで歌っている姿を実際に目にしたのは、今までのところ「22歳の私」がリリースされた当時のみなのだが、その映像を見た際に、何故か大きな違和感を抱いたのを今でもはっきりと覚えている。

当時その違和感の原因は、この曲の「落ち着いた曲調」から来る予想外の「貫禄」によるものであり、それはある種の安定感の表れなのかもしれないが、およそソロデビューとは思えないほどその姿が新鮮さに欠如していたことにあるものだと認識していた。しかし実際にソロとなった安倍を見て、どうやらこの認識は間違っていたという気がしてならないのだ。

この違和感は恐らく、安倍なつみ自身が「NULL」な存在であることに起因したものである。

「安倍なつみらしさ」とは一体どこにあるのだろうか。「安倍なつみらしさ」とは一体何なのだろうか。
この問いに対する答えが存在しないことは(少なくとも私には出てこなかったのだ)、すなわち安倍自身が「NULL」な存在であることの証明であり、これがキャラの確立という事象を強いられた他メンバーと安倍との決定的な違いでもある。

しかし、その「NULL」な存在であるはずの安倍は、かつて間違いなく娘。の中心として存在していたはずだ。「NULL」である安倍がその中心に存在し、その周囲を形作っていたのが他のメンバーであり、それがかつての娘。そのものであった。ただ、それは安倍が、外形が作られた上での後付的な中心であったことを意味しており、そしてこの事は、その中心が「NULL」な存在であっても娘。自体が存在しえた理由となり、同時にそれとは逆説的に、安倍本人が「NULL」な娘。の中心として存在しえた理由ともなる。

つまり「モーニング娘。の安倍なつみ」とは、他のメンバーによる外枠があることが前提で、ただその中心に存在していただけに過ぎないのだ。

当然その「NULL」である安倍には何もない。それゆえに安倍は、外側に対する求心力を有していない。すなわち、娘。における求心力とは、その中心にいたはずの安倍によるものなのではなく、外側を形作っていたはずの他のメンバーによるものだったのだ。自己矛盾しているようにも見えるが、この矛盾した概念の中にこそ、かつての娘。は存在していた。

結局のところ、「何もない存在」であることこそが、安倍なつみらしさとしての存在であり、前述の問いに対する答えでもあるという結論に至る。

そんな安倍が他メンバーによる外形を持たずに一人で歌っているその姿に違和感を感じるのは、考えてみたら当然のことである。安倍は外側に形作られた外枠があるからこそ、その中心に存在していただけであり、娘。の中心に位置していたその安倍本人は、本質的には何も持たない、ただただ空虚な存在であるのだから。物質における中心とは元来そういうものである。

私は「なっち、娘。をやめないでおくれよ!」などと言うつもりは全くない(今更こんなことを言う事の方がおかしいのだが)。ソロとしての活躍を心から望んでいるし、今後リリースされる曲も恐らくは購入し続けるのであろう。しかし外側に対する求心力は、かつての娘。の中心として存在していた「安倍なつみ」であっては、決して生まれてくるものではない。

「何もない存在」であるはずの安倍自身に、周囲からの相対としてではなく、絶対的な「らしさ」が形成されたその時、本当の意味で安倍なつみのソロは、初めてスタート地点に立てるのだと私は思う。

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