過去ログ#91〜#100


完全無欠アイドル化宣言
館山なちコンを3公演見てきて、すさまじく体が重く、「もうそろそろ死ぬんじゃないかしら。えりりん、ボクはもうそろそろ死ぬんじゃないかしら。」などと、か弱き乙女のごとく弱気になってしまっていたのだけど、昨日は21時頃から9時間以上も爆睡し、そのおかげで随分と体も軽くなって、今週末の武道館ではまた楽しめそうだ。とても良かったと思う。

さて、その館山なちコンの話なのだけど、初日から見てきた感想は、「あ〜。なっちはもう、完全無欠のアイドルなのだなあ。」といった、割と悲観的かつ感傷的なものであった。

ボクの中での「アイドル」の定義とは、「その人が好きで好きでたまらないという人達にのみ取り囲まれることで、芸能活動を続けていけている人のこと」なのだけど、はっきり言って今回のなちコンを見る限りにおいては、なっちはこの定義がモロに適用される人物となってしまっていた。つまり、なちヲタでは無いボクは、当然なっちが歌っているという事実だけでは楽しむことが出来ないわけで、そんなボクにはあまり楽しむことが出来なかったのが今回のコンサート。逆に楽しむことが出来るのは、なっちが好きな人達であり、なっちが歌っているという事実だけで楽しむことが出来ている人達のみ。

実はこれだけでは説明不足。それは、なっちが好きでたまらない人でありながら、今回のコンサートが楽しめなかったという人達も当然いるからだ。しかしながら、この人達が楽しめなかったという理由のほとんどが、なっちに対してなのではなく、恐らくはカントリー娘。の出演部に対しての不満や、なっち名義以外の曲を歌うということに対する不満のはず。けれども、なちヲタではないボクが、今回のコンサートで最も楽しめたのが、実はなっちとカントリー娘。とが一緒に歌っている箇所であり、過去の娘。の曲を歌った箇所であったわけで、言うなればボクは、今回のコンサートにおいて、なっちが一人で歌う「恋の花」よりも、カントリー娘。を交えて歌う「愛車ローンで」の方がよっぽど楽しめたのだった。ボクは、この事実に気がついたとき、一人愕然としてしまった。

ボクは、ヲタではない人達に対して、モーニング娘。のコンサートを見ることを勧めることは出来る。それは、モーニング娘。に興味が無くても、モーニング娘。のコンサートは楽しめる可能性があると思うからだ。たとえそれが結果的に楽しめなかったとしても。しかし、今回のなちコンは、残念ながらなっちに興味が無い人には、絶対に勧めることができない。それは、なっちに興味が無い人には、絶対に楽しめないとボク自身思うからだ。そしてこれが、冒頭における、なっちに対しての完全無欠アイドル化宣言の理由でもある。

確かに、今回のツアー自体に無理はあった。前回のツアー以降、新たに発売されたのがシングル2曲のみという状況で、前回ツアーと明確なる違いを演出するためには、なっちソロ曲以外の曲を多めに構成する以外に手は無い。しかし、そうなればボクのように、「例えば」のイントロが流れた瞬間に嬉しさのあまり興奮する人間も一部いたとしても、なちヲタの大半は楽しむことが出来ない。

また、なちコン初ゲストとなるカントリー娘。との絡みを多くすることで、前回ツアーとの違いを演出しようと思えば、ボクのように楽しむことが出来る人間も一部いるかもしれない。しかし同様にして、なちヲタの大半は、それではやはり楽しむことが出来ない。結果的になちヲタですら楽しむことが出来ていないという点において、今回のツアーは最低の出来なのかもしれない。この様な結果になる必然性は、ツアー開始前から当然あったのだけど。

こういった今回のツアーの置かれている状況を考慮するに、なっちの完全無欠アイドル化宣言は、少々言いすぎだったかもしれない。今回のツアーの出来だけではなく、次回以降のツアーの出来によって、これは明確になるとは思う。

ただ、曲の良さと演者のパフォーマンス性の高さによって、ヲタ以外の人が楽しめるか否かが明確に分かれてしまうのがコンサートなだけに、与えられた楽曲の良さという点において、他の人と比べると恵まれていないなっちとしては、今後のツアーもはっきり言って厳しい状況に置かれているとは思う。であれば、ボクのような、なっちが好きでたまらないというわけではない人間は完全に排除し、なちヲタだけが思う存分楽しむことの出来るコンサート構成にするというのは、最早必要悪なのかもしれない。なっちが今後歌の世界で生き延びていくということを考えても。

「あなた色 プレミアム」は十分に楽しめただけに、そのような状況になってしまうのは、ボクとしてはとても哀しいことではあるけれど。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

なちヲタの友人が非常に多い自分なだけに、今回の更新は憚られたのだけど、カントリー娘。出演部がコンサートを駄目にした元凶といった共通認識に、多大なる違和感を覚えたので、あえて書かせてもらいました。気分を害したなちヲタの方がもしいらしましたら、「気分を害した!」や「死ね!チンカス野郎!」など、遠慮することなく、なんなりとメールしてきてください。

一切、謝りませんからー。
(101)

100%つんく♂チルドレン
24日(土)日本武道館の公演にて、1回目のMC後の「大阪恋の歌」が始まる直前、リーダーの吉澤さんが唐突に発した言葉は、「じゃあ次新曲行くよー!」といった趣旨のもので、その言葉を聴いた瞬間ボクは、「お!そういや新曲がそろそろ出るんだったっけ!出ないんだったっけ!」などと、実は新曲発売とかあまりよくわかっていないにも拘らず一人興奮し、「グッバーイ!大阪恋の歌ー!」と嬉しさのあまり奇声を上げていたのだけど、その注目の新曲「恋は発想 Do The Hustel!」の出来が、一つも肯定できるところが無いくらいあまりにも酷いものだったので、気がつけばボクは、「カムバッーク!大阪恋の歌ー!カムバッーク!」などといった、心にも無いウソを思わず口走ってしまっていたのだった。

「大阪恋の歌」、「色っぽい じれったい」と、不発曲が2曲も続いた後の今回の新曲。びっくりするくらい薄っぺらくて、びっくりするくらいつまらない、これら不発に終わった2曲をかるーく上回るほど、それはもう言葉ではうまく表現できないような素敵な出来栄えであって、聴いていて軽い眩暈を起こしてしまうほどであった。素敵過ぎる。

コンサートにて先行して新曲を歌ってくれるというのは、本来ならば実にありがたいことであり、ちょっとしたお得感すら味わえるものであるはず。にも拘らず、その肝心の新曲の出来がここまで酷いものであれば、新曲リリース1ヶ月前に聴いてしまったことは、お得感どころか、逆に圧倒的に損をした気分になってしまい、結果的に新曲リリースの時期までの1ヶ月間、何も期待できずに過ごさざるをえず、これであれば最早、先行発表そのものに対する価値すら見出すことが出来やしない。はっきり言って、とんでもないことをしでかしてくれたものだとボクは思っていた。

ところがどっこい。ところがどっこいである。

ここにきて突如、武道館にて先行お披露目をしたこの「恋は発想 Do The Hustel!」は、モーニング娘。28枚目のシングルなのではなく、モーニング娘。の28枚目のシングルのカップリングであるという発表がなされ、事態は急転直下。完全にあきらめていたはずの「娘。の次の新曲ってどんな曲なんだろー。ワクワク ワクワク。」というワクワク感が、再び不死鳥のごとく蘇ることとなったのだった。確かに、「カップリングにはまったくもって期待できないんだけどね。」という負の感情は、残念ながら今となってはどうあがいても払拭できないものの、テレビ等のメディアや、コンサートで多く歌われるであろうシングルA面の方にこそ、やはり期待は持ちたいもの。この突然の差し替えは、実に素晴らしい措置だったと思う。

恐らくつんく♂自身、新曲になるはずだった「恋は発想 Do The Hustel!」を、実際に武道館の娘。達のリハで聴いて、「あかんはこれは。これはマジであかんわ。ウンコやわ。デッカイウンコやわ。」と思い、急遽差し替えを決定したのだろう。実際、それくらい誰にでも良くわかるウンコ臭を発していたのが、この「恋は発想 Do The Hustel!」だったし、ここまでとてもいい流れで波に乗ってきている新生モーニング娘。が、こんな曲のために足止めを食らい、ウンコまみれみたいな状況になってしまうだなんてことがあっていいはずが無い。ボクの大好きなモーニング娘。がウンコまみれになっていいはずが無い!さらにその上3曲連続だなんて、モーニング娘。がウンコを頭から浴びているのを目にするのも、最早我慢の限界である!

今回の突然の差し替えにより、とりあえずはモーニング娘。がウンコまみれになるのは、真の新曲発表のその日までお預けとはなった。後は、この真の新曲が素晴らしい名曲であり、決してモーニング娘。がウンコまみれにならないことを願うばかりである。何も難しいことではない。アレンジャーを代えるだけで、割と簡単に実現できるものだと、ボクはそう思うのだけど。

娘。の曲は、カップリングにこそ名曲が眠っていると常々思っているボクなだけに、カップリングの曲には期待できないまま新曲リリースを迎えるというのは、楽しみの半分を奪われた形となり、不満が無いといえばウソにはなる。ただ、新曲発売間近で差し替えを行うというのは、あらゆる面においてデメリットが存在するはずだし、それこそ苦渋の決断だったはず。しかしながら、製作者サイドとして、いいものを、いい楽曲を提供したいという強い思いこそが、こういった英断を下したのだと、ボクは一人、とても都合よくそう思っている。100%つんく♂チルドレンとして。
(102)

3年越しのトレジャー・ハンター
今更ながら、ハロープロジェクトの楽曲の年間リリース数というのは半端ではない。最近でこそペースダウンしてきているものの、売れ行きが好調だった2000年〜2002年というのは、それこそ毎週何かしらハロプロ所属のユニットがリリースしてるんじゃないの?と思わせるほどであり、次から次へと新曲が発売されては消えていく、今思い起こせばそんな忙しない時期でもあった。仮に全ての曲を漏らすことなく聴こうと思えば、かなりの気合と相当な経済力が必要とされていたわけであり、恐らく多くの人達が、その中から自分の気になった曲だけをピックアップするということを余儀なくされていたと思う。

こういった状況が生み出すデメリットというのは、あまりにリリース頻度が高いがために、人目につくことも無くそのまま過去の曲として消えていく、有効に使われない曲が多数存在していたということ。これは、つんく♂が曲製作という面において長けているが故、こういった曲の無駄使いのようなことに対して全く抵抗が無いからなのか、いずれにせよ「もったいないリリースの仕方をするよなあ」とは、他人事ながらボク自身常々思ってはいた。

ボク自身、気に入った曲だけを集中的に聴くことを好む性格なため、普段こういった自分の知らない過去の曲は、敢えて聴こうと思わない限り聴くことはないのだけど、最近はiTunesでランダム再生をすることが多く、自分のお気に入りの曲以外を耳にする機会が多い。

そんな中、この過去のハロプロリリースラッシュがもたらした上記デメリット以外に、ボクは小さなメリットを見つけることに成功し、実を言うと現在、とてもお得した気分に浸っているのだ。その小さなメリットと言うのは、過去すでにリリースされ、もう随分と時間が経っているはずの曲の中に、自分的にドストライクの曲を見つけることが出来たこと。これはまさに、新曲のリリーススパンが短く、次から次へと新たな楽曲が発表になってしまうという状況だったがために生まれた小さなメリット。ここで「小さなメリット」と敢えて言ったのは、本来ならばリアルタイムで知っていて当たり前であり、そうであれば当然、これは何のメリットにもならないからなのだけど。

そして、今回ボクが知った自分的ドストライクの曲というのは、何を隠そう、2001年発売タンポポ「恋をしちゃいました!」のc/w「BABY CRY」である。って、やっべ!これ超いい曲なんですけど!今まで全然知らなかったんだけど、超いい曲なんですけど、これ!1967年頃の中期後半時期のビートルズを髣髴とさせるような気だるいロックサウンド。明らかに狙ってきているとは思うのだけど、そんなサウンドがボク的には完全にドストライク。さらにその上そんな曲が、「恋をしちゃいました!」というスペシャルアイドルソングのc/wに収録されていただなんて、つんく♂さんすげーよ!あんたすごすぎるよ!(てか、「恋をしちゃいました!」も、赤面ラブリーな歌詞さえ除けば、確かに単なるアイドルソングではないのだけど。)

「お主は何を今更興奮しておるのだ。」と、ボクのことを鼻で笑っている人も当然いるのだとは思う。そりゃそうだ。この曲を発売当初から知っている人にとってみたら、ボクのこの発言は実に3年も遅れているのだから。「こいつアホだな。」と思われてしまってもしようがない。

ただ考えてみてもらいたい。「恋をしちゃいました!」は死ぬほど聴いていたにも拘らず、そのc/w「BABY CRY」の方を全く知らないまま3年以上も経過し、そしてここに来て満を持して「BABY CRY」の良さを知ってしまった今のボクは、発売当初から「BABY CRY」を知っていた人よりも、よっぽど「BABY CRY」に対する興奮度は高いと来た。これはすなわち、今までずっと知らなかったからこそ得られたメリットであり、考えようによっては、笑われているはずのボクのほうが断然得をしているということにもなる。これはまさに、「今まで知らなくて良かったー!」と諸手を挙げて喜ぶことの出来る瞬間なのだ。とまあ、所詮今まで「BABY CRY」を知らなかった人間が、今更ながらに知ってただただ興奮しているだけなのだけど。

しかし、この「BABY CRY」以外にもまだまだ自分的ドストライクの曲はたくさん眠っている気がしてならない。「こんなにいい曲があったんだ!」という今更ながらな発見は、何かお宝を発見したような気持ちにもなれてとてもよろしい。つんく♂楽曲には、今まで十分はまっている気でいたのだけど、どうやらまだまだ楽しみ方が足りなかったようだ。更なるお宝発見のためにも、今まで聴いていない曲(と言っても、もうほとんど残っていないけどね)をこれからもどんどん聴いていこうと思う。

皆さんも一度、過去のハロプロの楽曲を集中的に聴いてみたらどうだろうか。普段自分の気に入った曲だけを聴いているという人は特に。また格段とつんく♂楽曲が楽しめるようになること請け合いである。
(103)

モーヲタとは忍耐である
『人として自然な行為をしているだけなのに、悪者になる。そんな当たり前のことが許されない世界なんて絶対におかしい!間違っているのは自分の方じゃない。周りの人間がおかしいだけなんだから!だから、私はこのまま引き下がるわけには行かない。私矢口真里は、素敵な彼とラブリーな生活を営みながら、アイドル業を両立させて、ごっ〜そりとマネーを頂く、そういう当たり前のことが出来るアイドル界を作ってみせるんだからッ!覚悟しなさいよ!キモヲタたち!』

やぐたんが、まるで何事も無かったかのようにハロプロのコンサ・イベントに参加し、その会場にて娘。時代から何ら変わる事のない「やぐたんっぷり」を思う存分ボクらに披露するたびに、ボクは冒頭のごとく、やぐたんの悪魔のような腹黒さを勝手に想像してしまう。これは精神衛生上非常によろしくない。

やぐたん一人が何をやろうが一向に構わないのだけど、こういったやぐたんの思いが、スッペシャル・エンジェリック・ラブラブ・スパー・エキセントリック・アイドルである亀井えりりんその人にまで波及し、えりりんがケタケタ笑いながら、どこの馬の骨とも知れない青年実業家とラブラブ交際、あろうことかそれが発覚だなんて事になったりでもしたら、最早ボクは集団心中を図らなければならなくなるではないか。ちなみにここで心中を選んだのは、一人で死ぬのはあまりにも寂しすぎるから。ただそれだけ。

しかしボクはまだまだ死ぬつもりはなーい!まったくもって死ぬつもりはなーい!
てか、ボクは永遠に生き続けたいとすら思っている人間だー!よって、ここで簡単に死を選ぶわけにはいかないわけであり、となればこの状況を打開できる方法は唯の一つ。それは、ボク自身がこの馬の骨とも知れない青年実業家となり、えりりんとラブラブな交際をしてしまう張本人になることなのだー!って、あったまいいー!おでめっちゃあったまいいー!

てことで、青年実業家って一体何をする人なんだろ?って疑問はこの際置いておくことにして、考えてみたらボクほど青年実業家っぽい人はいないと思うし、どちらかと言うとなんとなく青年実業家フリークっぽい気質も持ち合わせている気もするし、360度どこから見ても青年実業家マニアみたいなものだから、もうめんどくさいんで、思いきって明日にでも青年実業家になろうと思います。そしてえりりんとラブラブな交際をしてしまいます!してしまいまーす!

でも、こんなアホなことをわざわざ心配しなくとも、えりりんはボク達モーニング娘。がだいっ好きなオタクを見捨てるような酷いことはぜったいにしないから、安心していいとは思うんですけどネ!これってものごっつい気持ちの悪いオタクの発想と一緒なのだけど、どうせ同じオタクであるならば、とことんキモクなった方が得ってのは、こういうことなんですかネ!まいっちまいますネ!



はい。とうことで、ボクはどんなに頑張ってウソをついてみたところで、所詮はキモヲタなどという特殊能力を身に着けることは出来ない、いたってノーマルなオタク。上の文章を書いている時点ですでに軽く引いてしまうような、いたってノーマルなオ・タ・ク。しからばしようがない、明日の文化祭、メインステージ鑑賞用の整理券をゲットするために早朝から並ぶなどということは出来るはずも無いのだから、メインステージの鑑賞は会場に設置されているモニターによる鑑賞で我慢をしようと思う。死ぬほど残念だけど。もだえ苦しむほどにまで残念だけど。

しかし、こういった文化祭や、CD購入に付属される特典など、我を捨ててキモーイオタクにならなければ勝ち目が薄いというやり方にはどうも納得がいかない。キモクない人ほど優遇されるイベントとかってないのだろうか・・・。ないよねそんなの・・・。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

と、今回の更新はただの愚痴。考えるに、生まれながらにしてナチュラルキモな人達は、それこそ天性の才能なわけであり、はたまたボクと同様な境遇にいてもキモイ行動を取る人たちは、その分リスクを負って身を削っているわけであり、所詮そのどちらでもない自分がタダの負け犬だってことは重々承知している。ただ、一般的に見たら十分にキモく、ややもすると周りから心配されかねない状況にすでに自分もいるだけに、これ以上の暴走は理性で抑え込まなければ、全うな社会生活を営むことは出来ない。こんなにまで過酷な試練を乗り越えなければえりりんを間近で見ることが出来ないだなんて、モーヲタって本当、厳しい世界だと思う。つくづくそう思う。

モーヲタになること。それはすなわち忍耐である。(ナチュラル・ボーン・キモ以外)
(104)

エコ演劇における不要な修飾語
「まあ、まあ、つるつるいっぱいって言う」娘DOKYU!にて、高橋愛さんが発していた福井弁「つるつるいっぱい」の意味が、結局わからないままで、非常に歯痒い思いをしている毎日。グラスに入った飲み物を手にとって、「まあ、まあ、つるつるいっぱいって言う」なんて説明じゃ、全然わかんねーよ。高橋さん全然わかんねーよ。「つるつる」と言えば、最近会うと「さゆみんテラキャワス」しか言わない彼とボクの間では、「さゆみんはつるつる」という活用方法で成立しているのだけど、この場合のつるつるとは、きっと違う意味ではあろう。ちなみに、「つるつる」の強調が「つぅるつぅる」ということは、覚えておいて損はないと思う。

さて、ちょいと古い話題になるのだけど、先週10月8日〜10月10日の3日間、モーニング娘。文化祭2005”熱っちぃ地球を冷ますんだっ。”がパシフィコ横浜にて執り行われた。文化祭自体は特に面白いこともなく、これといって印象深いものは何一つなかったのだけど、唯一印象的だったのがハロプロのメンバーがメインステージにて3日間行っていた演劇にある。当然環境問題を取り扱った文化祭ゆえ、演劇の内容そのものも環境をテーマにした内容であった。

ボクはこの演劇は、会場に設置されているモニターにて鑑賞をしていたので、最後までしっかりと見ていたわけではなかったのだけど、どうやら設定は現在より未来の話であって、未来人扮する娘。たちが劣悪な環境にまで悪化してしまった日本を嘆くといった内容。具体的に何年先の未来を想定した話なのかまでは良くわからないのだけども、話自体は少々大げさで、現状ではそこまで環境が悪化してしまうということに対していまいちピンとこなかったりもする。

ただ、環境に対する意識を少しでも高めようということが目的である以上、これくらい大げさな方が効果的だろうし、娘。を始めとする若年アイドルが取り扱う環境問題ならば、むしろ、あまり現実性を帯びない、これぐらい大げさな内容の方が好感も持てるというもの。所詮会場に足を運んだほとんどのヲタが、環境問題というテーマそのものよりも、さゆみんの、長台詞を途中つまづくことなく一生懸命に感情をこめて語っている姿の方にこそ関心を持ってしまうのだから、内容そのものはどうでもいいと言えばどうでもいい。

しかしながら、この演劇の終盤にて、「どうでもいい」という一言では簡単には片付けられない、不可解なる台詞を、モーニング娘。のリーダー吉澤さんが発することとなる。

それは、こんなにまで環境が悪くなってしまったのは誰のせいなの?といった振りに対しての発言、「それは、会場に来ている、お前たちのせいだー!!」というもの。

ここで注目すべきは、この台詞の「会場に来ている」という修飾語にある。当然この修飾語は「お前たち」という名詞にかかってくるわけで、言い換えればこれは、会場に来ているヲタを指して言っていることになる。実はこの、「会場に来ている」という修飾語があるのとないのとでは、劇全体の構成を考えた場合でもかなり大きな違いがある。それはこの修飾語により、近未来という設定や、各メンバーが扮するキャラクター、その他もろもろのステージ上のみで設定されていたはずの世界が、全て崩壊してしまうからである。

未来の環境をテーマとして取り上げ、そのテーマに対して設定されていたはずの世界により、ステージ上の娘。達と、それを鑑賞している者との間には、完全に別の空間が成立し、当たり前だけれども、これが演劇でありお芝居と言うもの。ところが、このたった一言の台詞にて、これまで当然のようにあったはずの別世界という設定が、完全に崩れ、ステージ上で劇を演じる娘。達は、鑑賞しているヲタ達を、完全に意識しているという状況が生まれることとなる。

この瞬間、この演劇にて視聴者に伝えようと思っていた、脚本を書く上で本来あったはずの大テーマですら、視聴者側には全く伝わることもなく、結果的に視聴者に残るものといえば、別世界にいたはずの娘。達が、架空の設定ではなく、突如「パシフィコ横浜のステージ上で、ヲタの皆さんの前で演劇をしています」という現実の設定に対する意識を持った上で、ステージ上から台詞を発するその姿を目の当たりとし、「何で俺たちが悪いの?グッズとか買いまくるからかなあ?でもグッズは大切に保管しているし、決して粗末には扱ってないけどなあ。環境に悪いのかなあ。」といった果てしない疑問のみ。

演出家・脚本家が、どういった目的でこの台詞を最後に持ってきたのか。未来人と現代人という対立にて、現代の人達に環境問題をテーマとして伝えたいのならば、「会場に来ている」という修飾語は不要であり、「それは、お前たちのせいだ」という、現代人全体を指す一般性を持った台詞にするのが正解だとボクは思うのだけど。この台詞のおかげで、最終的には真面目なテーマを取り上げているはずの演劇が、若干コントのような様相を呈し、結局は大テーマですらいまいち伝わってこないという結果をもたらす。実に不要な修飾語だったと思う。

ところでそんなボクは、会場にてこの台詞を耳にした時、「環境のことを一番考えていないのは、即刻ゴミ箱行きになってしまうようなクリアファイル付きピンナップポスターなんかを500円などという法外な値段で販売している、お前らアップフロントの人間だろうがよーーー!!!」と、クリアファイル付きピンナップポスター保田圭バージョンを手に、一人心の叫びを訴えていたのであった。(捨ててないけどね!)
(105)

逃した魚は本当に大きそう
「恋は発想 Do The Hustel!」がシングルA面からc/wへと差し替えになり、もろ手を挙げて喜んだのも束の間、その差し替えとなったシングルが「直感2〜逃した魚は大きいぞ!〜」であるという情報を目にし、軽い脳震盪を起こしそうになったのは数週間前。にもかかわらずその後、そのアレンジを担当するのが、あろうことか「恋は発想 Do The Hustel!」をアレンジした人と全く同じ人であるという情報を目にし、今度は脳溢血を起こしそうになってしまった。予想したとおりの最悪のパターン。なんなんだよこれ。なんだってんだよこれ。

そもそも、差し替えとなるシングルA面が「直感2〜逃した魚は大きいぞ!〜」に決定した時点で、「次の娘。の新曲はどんな曲なんだろー」というワクワク感はすでになく、大いに期待はずれにもかかわらず、その新曲を「恋は発想 Do The Hustel!」をアレンジした人と全く同じ人が担当するだなんて、結局今回の娘。のシングルには何の期待も持てやしない。ピロピロシャカシャカと実に耳障りな音が雑音のごとく収録され、娘。達の歌と曲とが全く噛みあわない、ちぐはぐな曲が出来上がることは現時点で濃厚だ。

アルバムに収録されていたオリジナルの「直感〜時として恋は〜」は、決してつんく♂ワークの時点でもいいと言える出来ではなく、それでもそれなりの楽曲に仕上がっているのは、アレンジの良さと、アルバムの流れや全体の構成を担う一曲という付加価値があるからこそ。そんな曲をシングルとして抜き出すことで、その付加価値を無くしてしまう上に、アレンジまでもがチープな出来であるならば、最早この新曲に掛ける期待など、美貴ティがこの先ボイーンボイーンになる期待よりも遥かに遥かに薄い。こいつは、まったくもっていかんともしがたい。

これまでの実績から、「恋は発想 Do The Hustel!」をアレンジした人が担当した楽曲にて、まだなんとか無理をすれば聴けるというのは、つんく♂ワークの時点でそれなりに良かった場合のみであり(逆に言うと、そういった曲を違う人間にあてがっておけば、もっともっといい曲がたーっくさーん生み出されていたってことなのだけど)、今回の曲の場合だと、つんく♂ワークの時点でそれ程でもないだけに、この「色っぽい じれったい」をアレンジした人であれば、全くもってなす術がないのだと思う。この「大阪恋の歌」をアレンジした人は、つんく♂ワークスの至らなかった部分を補い、更によくする様なアレンジなどは出来るはずもなく、この事はすでに今までの実績から言っても明白。一体全体何故この「女子かしまし物語」をアレンジした人を、モーニング娘。の楽曲のアレンジャーとして選択するのだろうか。果てしなく疑問である。

しかし、こうなればもう、元のアレンジを壊すことなく、ものっすごーく控えめにリアレンジをしてもらうことを願う以外に手はない。もとより、オリジナルの編曲がある状態で、それを無視して全くの無からアレンジをし直すなんて能力などは持ち合わせていないだろうし、心配しなくてもある程度オリジナルのままという気もするのだけど、そうであるからこそ、尚更アレンジャーの変更が不要に思えてくるというのも事実。

いずれにせよ、1曲、2曲ではなく、手がけた曲のほとんどが単調でチープで、にもかかわらず耳障りなアレンジという、とっても素敵なこの「AS FOR ONE DAY」をアレンジした人には、これからも一切期待することなんて出来やしないのだーーー。あーあーあーあーあー。
(106)

我思う、さゆみんかわいい
まったくもって唐突であり、と言ってもそれ程唐突ではない気もするのだけど、さゆみんってちょーかわいくね?いや知ってたけど。驚くほどに純真で素直なところとか、すっごい癒されね?いや知ってたけど。と、ここで言うところの、語尾の「ね」は、当然、否定の「ね」なのではなくて、問いかけや勧誘を意味するところの「ね」であり、つまるところボクは、「さゆみんってちょーかわいいよね!」と皆に対して同意を求めていることになるのだけど、そんなことよりも、マジでさゆみんってちょーかわいくね?いや、もうずーっと前から知っていたのだけど。

そんな熱い思いがボクの中で明確化されたのは、今週のハロモニにてさゆみんが、催眠術にかけられたふりを一生懸命に演技し、その後、仕込みのニセモノ催眠術師が、一秒で見抜けるようなガチガチのカツラを脱いで、そのハゲ頭をタダ単に晒しているだけというシチュエーションを、「さゆみ本当は、催眠術にかかっていたんだー」という淡い期待でもって素直に受け入れてしまうのを目の当たりにしてから。これまで確実に行われていたはずの自身の演技ですらも否定し、おもくそ酸っぱかったはずの酢の味すらも忘れ、催眠術による幻覚により、おっさんがハゲた様に見えてしまっているという、最もありえないはずのシチュエーションを、何の疑いもなしに素直に受け入れてしまう。

最もありえないはずの選択肢。しかし、その選択肢を、つい先ほどまで、催眠術にかかった偽りの演技をしていながら、いとも簡単に受け入れてしまう。その、常人には到底考えられない思考によるギャップが、ボクの心を激しく打ち、結果的に「さゆみんちょーかわいい!」と言わしめる。さゆみんちょーかわいい!さゆみんちょーかわいい!

しかし、ここでボクは考えた。

テレビに出る芸能人として、多くの人間から見られることが常日頃の仕事であり、なおかつテレビ番組の収録という状況であったことからも、催眠術にかかっているふりをするというのは極自然であり当たり前のこと。言ってみればこれは、偽りの自分を演じていることにもなる。となれば、ボクに「さゆみんちょーかわいい!」と言わしめたこの状況ですらも、偽りであるという可能性は残念ながら否定できない。それはボクがこの様に、「さゆみんちょーかわいい!」と思った原因は、偽りの演技をしていたはずが、あっさりと催眠術にかかった気になってしまうその落差にこそ存在していたからであり、仮にもしこの「あっさりと催眠術にかかった気になっている」ことですらも演技であり、この落差が無いとなった場合、ボクが「さゆみんちょーかわいい!」と狂気じみた発言をすることもなかったはず。

果たしてどちらが本当なのか。これは間違いなく演技ではないとボクは強く思うのだけど、確証がない以上は切り捨てざるをえない。ボクは、ボク自身を発狂させたこの落差の存在を切捨て否定した。

それでは果たして、本当の道重さゆみとは一体どのような人物なのか。上述のごとく、芸能人としてのテレビ上のさゆみんは確かに存在し、それはある意味においては偽りのさゆみんに他ならないのだけど、テレビとは無関係な普段の道重さゆみであったって、やはり何ら変わる事はなく、ボクらの知るところのさゆみんであると、ボクは強くそう思う。しかしながら、これとて確証などはあるはずもなく、そうであれば切り捨てざるをえない。ボクは、普段の道重さゆみも、変わらずさゆみんであるということを切り捨て否定した。

この様にボクは、少しでも疑いのあるものを一切合財切り捨ててみた。そして、この強力な方法的懐疑により全てを否定した後、ボクが最終的に行き着いた到達点が、「それでもやっぱりさゆみんはかわいいのだ」という、否定完全不可能な普遍的真理の発見であったのだ。

『我思う、さゆみんかわいい』

仮に17世紀に道重さゆみが存在していたならば、ルネ・デカルトは、「コギト・エルゴ・スム」という真理に行き着く前に、この「さゆみんがかわいい。マジでかわいい。やっばいくらいにかわいい。」という、極めて確固たる真理に行き着き、悶絶していたのだと思う。

デカルト、命拾いしたな。
(107)

お願い!亀井女神様!
自分の中における亀井えりりんに対する好きっぷりが、現在とてつもない上昇を遂げているので、これまで5年近くヲタをやっていて、今が一番世間的にもキモクてヤバイのは間違いないのだと思う。客観的に見て自分がキモ過ぎるのが、自分自身良くわかるし、マジでシャレになってないくらいキモイよお前って感じ。ふふん?

超キュートな女神ボクがこの様に目も当てられないくらいキモクなってしまっているのは、現在放送されている娘DOKYU!の亀井えりりん二人ごと企画が、猛烈に素晴らしい企画であることが全ての原因。ニコニコ笑いながら、わけのわからないギャグを発したり、これといって特に面白くも無い話をおもしろ話として話してみたり、感動した話をしていたつもりが、最終的にはビックリした話になっていたりなど、超絶的に可愛らしいえりりんが、狂おしいほどにまで愛おしい。超絶的に可愛らしいえりりんが、狂おしいほどにまで愛おしい!

と、以上の文章を読み返しただけでも、半端無いくらいキモイのだけど、あんなにまで可愛らしい姿を見せられたら、ますます好きになっちゃうに決まっているじゃないか。こんなの、好きになるなって方が無理に決まってるじゃないか。何を言っているのだお主は。お主は何を言っているのだ。あの映像を見ても、亀井えりりんのことが一ミクロンも気にならないなどという不埒な輩がいるのだとしたら、それはもう鈍感を通り越して無感なだけだ。感情も何も存在しない。感覚という感覚が全て機能していない。まったくもって恥を知りたまえ。

悶絶する女神しかし、もうすでに随分と前から思ってはいたけれども、この娘DOKYU!の亀井えりりんを目にして、ボクはえりりんは現世で最も女神に近い存在なのだなあ ということを改めて強く心に思った。これはもう、亀井女神様にお願い事をすれば、何でもかなってしまいそうな気がしてならない。せっかくなのでここは一つ、亀井女神様にお願い事でもしておこうかと思う。

亀井女神様。亀井女神様。テレビで自ら「アイドル」宣言をしているやぐたんを、是非とも黙らせてあげてください。お願いします。お願いします。お願いします。

えりりん娘DOKYU!を見れば、あれほどにまで心が和むというのに、やぐたんをテレビで見ても全くもって和みやしない。一体全体、えりりんとやぐたんのこの雲泥の差はどこから来るというのか。果てしなく疑問である。

しかし、亀井女神様というキャラクターを想像してみたら、それこそケタケタ笑いながらゴルフのドライバーなどを振りかざし、本当にやぐたんを黙らせてしまいそうで、ちょいとばかし恐ろしい。
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ヲタ芸を止めますか?それとも人間を止めますか?
27日(日)の群馬県民会館の公演でもって、2005年モーニング娘。秋のツアーはファイナルを迎えることになるのだけど、ボクはこの日は参加予定はないので、昨日の横須賀夜公演がボクの中での今ツアーファイナルだった。結果的に11公演に参加。これまで、同じツアーでの参加数が最も多かったのが2004年春の亜弥コン「私と私とあなた」の計6公演だったので、これと比べると今回は随分と参加したことになる。

ところで、その横須賀夜公演でのMCでの出来事。実は、少しばかり許容し難い出来事が起こってしまったのだった。

それは、コンサート中盤、5期の4名が直感にまつわるトークをした後、入れ替えで残りのメンバーがステージ上に現れるという流れになっていたのだけど、その第一声でリーダー吉澤さんが発した言葉が、コンサ終了後に会場内に客出しでかかる「声」の曲に合わせて、毎回ヲタが会場で叫んでいるけど、アレって何て言っているの?というもの。結果的にそれがロマンスという名の付く非常に見苦しい踊りであるということは何となく分かったらしく、しまいには皆でふざけながらも、ステージ上でそのロマンスを踊ってしまったのである。

はっきり言って個人的には非常に胸糞悪い光景だった。

これは、娘。達は我々俗人どもの事などは、何一つ知らないのだということが分かった出来事でもあり、その点においては安心することが出来たのだけれど、今回の場合、その無知がゆえに引き起こされてしまった最悪の出来事だったのだと思う。

特にここ最近、ハロー関係のコンサにおける、一部のヲタのヲタ芸を始めとする迷惑行為は問題視されていて、このヲタ芸は、「邪魔、目障り、キモイ」など、何一つ肯定できる要素のない行為。こんな迷惑極まりない行為を、平然と他人の目の前で行ってしまうような非常識な人間であれば、娘。達が今回のようにステージ上でそのヲタ芸を話題にした瞬間、「ヲタ芸は娘。公認だー!」などとのたまい、これまで以上に踊り狂うなどということも十分に考えられる。そういった意味において、これは最悪の出来事だった。

実は、その前のMCにて藤本美貴ティが、「自分が歌っている間中回ったりしていて、相変わらず自分の方を見ていない。でももういい。好きに楽しんでください。」といった趣旨のコメントをしていたのだけど、これは、完全なる諦めと軽蔑の言葉であり、美貴ティの気持ちを代弁すれば「お前ら死ね。」ってことと最早同義。でも、娘。に限らずステージ上の演者にとっては、自分が歌なり演技なりをしている時に全く自分の方を見ていない人間に対しては、こういった気持ちを抱くことが至極当たり前であり、当然のこと。ボクはこの美貴ティのコメントを聞いた際に、ヲタ芸という迷惑行為に対する一種の是正勧告として働くかも、といった淡い期待を抱いていただけに、その後のMCでヲタ芸を踊る娘。達を見て愕然とし、眩暈が起こってしまった。

ただ、先程も言ったとおり、娘。達は我々俗人どものことなどは何一つ知らない。これは、いつだったか、ボード厨に反応しているということを声高らかに宣言していた新垣さんにも同じことが言えるのだと思う。ゆえに、彼女たちには何一つ罪は無いのだけれど、あまりにも我々のことを何も知らないだけに、逆に今回の一件は非常に質が悪いのだと思う。

あとは、「ヲタ芸は娘。公認」などという、甚だ迷惑な勘違いを起こすお馬鹿さん達が増長しないことを願うばかりである。あれだけ楽しいはずの娘。コンを、唯一台無しにし、つまらなくしている負の要素がこのヲタ芸なのだから。

そんなもの許されるはずがねぇ。
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ちょっとした藤本美貴の人物評
つくづく藤本美貴という人物は面白い人間だなあと思う。

彼女がモーニング娘。の一人として活動していること、アイドル歌手として歌っていること、これらについて一体どのように思っているのか、彼女の発言や行動をメディアで目にするたびに、ボクは不思議に思うと同時に、非常に興味をそそられてしまうのだ。

先日放送された娘DOKYU!にて、「私は昔からみんなに好かれようとは思わないタイプなんです。わかってほしい人にだけわかってもらえればいいし、それ以外の人に「あいつは冷めている」って思われても私は全然気にしない。」といった、スピリッツオブガッタスの引用がなされていたのだけど、これがもし、単なる一般人の言葉であるならば、「人それぞれの考え方の違い」という一言で片付けられてしまうことではあろう。しかし、仮にもこれは、アイドル歌手として多くの人間の前で歌い踊り、人気を商売とする職業についている人間の言葉なのである。はっきり言ってこれには少々驚かされてしまう。

この言葉を聞いて真っ先に思うこととは、「では何故藤本美貴は、自ら歌手になりたいと思ったのか?」といった疑問である。ただ単に歌が好きなだけならば、カラオケに行けばいい。自分のことを理解してくれる人間といることが幸せならば、気の合う仲間同士で一緒にいればいい。しかし、彼女が選んだのは、大勢の人達の前で歌い踊ることであり、目には見えない多くの人間の視線を、否応無く気にしなければならない場所である。どうでもいい人間にどう思われても全然気にしなくていいのではなく、多くの人間の目に触れるがために、自ら気にしなければならない場所なのである。そういった場に自ら望んで踏み入れたにも拘らず、他人の目は気にしないという意見。これは随分とおかしな意見であろう。

彼女のこの気持ちと、彼女が現在いる立場とには大きな矛盾が存在している。普通であればこの矛盾に苛まれ、一人葛藤し、苦しみ悩むところだとは思うのだけど、彼女を見る限りにおいては、そのような悩みを持っているようにはとても思えない。確かにこの言葉の通り、全然気にしていないのであろう。つくづく面白い人物だと思う。

しかし、恐らくこの言葉は、多くの人間に媚びへつらうということに対する彼女自身の拒絶を意味しているのだと思う。多くの人間に好かれるように愛想を振りまくこと。多くの人間に好かれるように自身のキャラクター変化を強いられること。こういった煩わしさに対する拒絶。そんなことをするくらいならば、人気などは一切要求しない。たとえ少数であっても、自分のことを理解してくれる人達に囲まれ、大好きな歌を歌う。これが彼女の望みであり、彼女がよく口にする「自然体」というキャラクターへのこだわりなのだ。この言葉は、「好かれようとは思わない」のではなく、「好かれることに越したことは無いけれど、自分自身が無理をしてまで好かれようとは思わない」というものであり、これこそが彼女の本音なのだと思う。

にも拘らず、このようないい訳じみたことは一切口にせず、「別に、みんなに好かれようなんて思っていませんから。」とそっけなく言い放つその態度。この藤本の不器用な生き方が、なんとも面白く、愛らしいではないか。

ただ、ここに来て思ったのだけど、女子かしまし物語の藤本パートにおける、「上司と上手におしゃべり一種の才能かも・・・おいしいケーキ屋さん見つけたんで、連れてってくださいよ〜」というフレーズが、仮に真の藤本を表現した言葉であるならば、藤本美貴という人物は、不器用などという言葉とは程遠い、自分にメリットのある人物、メリットの無い人物とを明確に区分し接する、したたかなる究極の世渡り上手なのかもしれない。

いやはや。つくづく藤本美貴は面白い。
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