過去ログ#01〜#10


搾取する側とされる側
10日ほど、ネットはもちろんハロー関連の話からは遠ざかっていたので、当然と言えば当然なのだが、最近ハローで何が起こったのかということを現在のボクは全く把握していない。もっと言ってしまうと、何かがあったのか、それとも特別何もなかったのか、それすらもわかっていないという状況にある。

もっとも、この「把握」というものは、ヲタとしての極小さなニュースに関する「把握」であり、「矢口が感染性腸炎のために入院していた」といったような一般層にも届くような大きなニュースは、ある程度聞き及んではいる。その矢口はすでに退院しており、今現在は自宅にて静養中とのことで、大事には至らず本当によかったと思う。

しかしどうも最近の矢口には、何か「悲壮感漂うヒロイン」的なイメージが定着してきているようであまりよろしくない。かつてのなっちにも、実はこの「悲壮感漂うヒロイン」という言葉がよく似合う時期(めっちゃ太っていた時期)があったのだが、現在の天真爛漫ななっちからはその様なものは微塵も感じられず、気が付けばいつの間にかそのイメージは、矢口の方へとシフトしてしまっている。

俗にいうカップリングというものの中に、この二人による「なちまり」というものが存在していることは、カップリングヲタではないボクももちろん承知していることではあるが、どうもこの「なちまり」というものは、「天真爛漫に搾取する側(安倍)と悲壮感漂う搾取される側(矢口)」という構造の下に成り立っていると思えてならない。

今回「あな真里」において、なっちが矢口の代役を務めたらしい。
なるほど、これはカップリングヲタをこの上なく幸せにさせるシチュエーションに違いないのであろうが、しかし今回の例の様に、矢口の代役としてのなっちというのは、十分すぎるほど成立するが、その逆である、なっちの代役としての矢口というのは果たして成立するのか。「所有しない者」が「所有する者」の代役を務められるとはボクには到底思えない。

これは「なちまり」というカップリングを、なちヲタの視点から見ている場合は多く見るものの、ヤグヲタの視点から見ている場合をあまり目にしないということとも、やはり共通している気がする。搾取される側の視点からこのカップリングを推奨することは、土台無理な話である。そしてこれらのことが、矢口に対する「悲壮感漂うヒロイン」という印象をより一層強めている一つの原因なのかもしれない。

なっちが年不相応に無邪気に振舞い、「笑顔」や「幸福感」というイメージを所有するたびに、それに付随して何故かボクの中には「悲劇の矢口」というイメージが強くなってきてしまう。これは一体どうしたものか。
(1)

つんく♂オフィシャルコメントから見る「W」
年明け早々の卒業発表に続き、またしても、ちょうどボクがネットと娘。関連の話から完全に離れ、それはもういたって健全な一般人面をしながら、揚々と生活を送っていた数日の間に新ユニット名の発表があったりと、なんだかボクとはことごとく縁のない感じが非常に気がかりな辻加護新ユニット「W(ダブルユー)」であるのだが、かなり今更感を覚悟で書いてしまえば、このユニットのテーマは「双子じゃないのに双子みたい」ということらしいのだ。

思い起こせば、毎年の如く娘。のメンバーが増え続けることで、そのメンバーの名前も顔も最早把握できなくなった世の一般人達が、もうモーニング娘。にはついていけないよー的なアピールとして「辻ちゃんと加護ちゃんの区別すらつきません」といったことを、割と皮肉めいて口にしていたものだが、しかしそういったことからもこの二人に対する一般層のイメージとは、未だに「似ている=双子みたい」というものなのかもしれない。まさにテーマ通りのイメージではある。

ただ、確かに加入当初は似ていたのかもしれないが、お互いの成長に伴い明らかに当初のイメージとはかけ離れてしまっている現在の二人を、再び「双子じゃないのに双子みたい」といったテーマで売り出すというのは、やはり毎日のように娘。を見ているボクのようなヲタにとってみれば、少々賛同出来ない部分もあったりする。

「双子みたい」というテーマは当然どちらが抜けても成り立たないことであり、「二人で一つ」的な意味合いがどうしても強くなってしまう。目先の活動のみを見ればこれはある程度効果的なのかもしれないが、いつまでも「辻加護」といったセット売りの状況を作っているのも、これから先のことを考えるとあまり得策とはボクには思えない。もちろんこれは、この二人にとってみても。

また、このユニットの記念すべきデビューシングルは、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」のカバー曲ということらしい。「W」で掲げたユニットテーマからも、実際に双子で歌を歌っていたザ・ピーナッツのカバーという発想が少なからずここにはあったのだろうが、カバー曲というものには全く興味の湧かないボクとしては、個人的にはこれはかなりがっかりする発表ではあった。

新曲リリースにおける醍醐味は、次はどんな曲なのだろうという「ワクワク感」なのだとボクは思う。現時点でもうすでにわかってしまっているカバー曲に、ワクワク感を求めるのは正直言って難しい。そういう意味でも、せめてデビュー曲ぐらいはオリジナル曲でスタートを切るべきだとボクは思うのだが、今現在はこちらにまで回すほどの余力などは無いということなのだろう。まあやはり不愉快な話ではある。

唯一期待できそうなところは、もしかしたらこの二人のハモリが聴けるかもしれない ということぐらいだろうか。オリジナルの「恋のバカンス」は、ボクの記憶が確かならば二人のハーモニーを基本とした歌だったはずだし、それ以前に「双子みたい」というテーマを掲げているのだから、やはりそこにはキレイなハーモニーといったものを期待してしまうのがヲタの性というもの。基本的に娘。はユニゾン主体なだけに、とりわけこのことは楽しみな要素の一つだとは思う。まあ、実際にどうなるのかは全くわからないのだが。

ところで、今回のつんく♂オフィシャルコメントは、意外にもそれなりにちゃんとしたものであった。上述の如く小さな不満はあるものの、辻加護新ユニットに対して、やっぱりこのおっさんも色々と真剣に考えているのだな といった希望が十分に伝わってくるものとなっているのだ。じつに素晴らしい。

いや、これはもう、恐らく間違いなくこのおっさんに、いいように騙されている証拠だとは思うのだが、この様にしっかりとしたコメントを目にすれば、とりあえず実際に動き出すまでは安心した気持ちになれるのだから、精神衛生上とてもよろしい。とてもよろしいことだと思うし、この際だから積極的に騙されておこうとも思う。

ただ考えようによっては、つんく♂が最悪の悪知恵をつけてしまったことにもなる。コメントだけしっかりしときゃええんやろ みたいな。これは最悪の状況である。
しかし、もしそうなのだとしたら、やはり奴のキンタマの一つや二つ握り潰してやりたい気持ちにはなる。これも爽やかのなせる業なのか。そうなのか。そうなのか?
(2)

笑顔がいい人わるい人
アイドルに最も必要なものは、多くの人をひきつける素敵な笑顔に違いない。
そもそも笑顔が可愛くないアイドルなんてものが、今まで存在していたのかどうかは定かではないが、当然の如くアイドルに笑顔は付き物であり、それがアイドルとしてのバロメーターの一つだ。よって、その職業柄や肩書きによるものではなく、その「笑顔」から、松たか子は必然的にアイドルではないということになる。

割といつも通り軽快に見忘れていた先日のあゃゃうたばんを、先程無事に見ることが出来た。なつかしアイドルとして、4名の「女優」の方々があゃゃと共に出演していたわけだが、やはりあゃゃと、この現在「女優」という肩書きを持つのであろう元アイドルの方々との決定的な違いはその「笑顔」であった。アイドルは決して年齢的なものだけではない。一番重要なのはやはり笑顔なのだ。この4名の方々の肩書きの変化の理由はここにある。

それこそもう、可愛いらしい笑顔を持つアイドルを見るたびに、アイドルなんてただ笑っていりゃいい 他に何も出来なくたっていい ただのバカでも全然構わない などと、少しばかり行き過ぎた思いを抱いてしまうほど、アイドルといえば、そう、「笑顔」なのである。

しかしこれは何もアイドルに限ったことではない。もちろん一般人であったって、老若男女問わず、素敵な笑顔を持つものはとても印象がいい。むしろ年をとっていてもなお、笑顔が素敵な人なのであれば、その年齢とのギャップから、より一層の好印象を受けるに違いない。人間誰しも必要なものは、やはりそう、「笑顔」なのである。

そんな中ボクらは、何をやっている時でも、何を話している時でも、とにかくテレビ画面にその顔が映し出された際は、それはもう必ずといっていい程、その笑顔を振り撒いているという人物をよく知っている。そう、つんく♂だ。

含み笑いとニヤケ面。奴がテレビに映るときはいつもこれだ。どんな場面でもこれだ。全く笑うような場面ではなくとも、奴はいつも含み笑いだ。デフォルトで含み笑いだ。投稿笑わん姫のコーナーがのっけから成立しない程ニヤケ面だ。何がそんなにおかしいというのだお前は。何故普通の顔が出来ないというのだお前は。奴がニヤつかない場面といえば、唯一裸でブロマイドを撮るときだけだ。裸でブロマイドはおすまし顔だが、それ以外はいつもニヤケ面だ。まったく気持ちが悪いことこの上ない。

当然これは「素敵な笑顔」と形容できるようなものではなく、逆に果てしなく印象が悪い。とことん印象が悪い。その笑顔で、「世の中全て笑っていれば許されるんやろ?ロックや!」などと思っているとは、とんだ勘違いヤロウだ。

しかしながらこのつんく♂の笑顔は、もしかしたら彼自身が青春時代からずっと見続けてきた、当時のそして今現在のアイドルの影響によるところが大きいのかもしれない。夢中になってアイドルを見ているうちに(現在進行形)、無意識のうちに自然とあのニヤケ面が身についたのだ。これは実に危険なことである。

生まれつきの爽やかボーイ(ボクeisei)から言わせてみれば、最早どうすることも出来ない、自然と湧き出てきてしまう、この「世の中素敵な笑顔が必要なのだ!」といった爽やか発想は、結果的につんく♂と同様のニヤケ面をボク自身に憑依させかねない。この醜悪なるニヤケ面は、夢見がちな少女が近くにいれば、即刻通報されるに決まっている。これはボクの人生を左右する程の重大なる問題である。

もうやめだやめだ。ここぞという時に見せ付けていた、つんく♂の含み笑いの真似はもうやめだ。
(3)

あなたがくれたすべてに ありがとう
思い出の一曲・印象深い一曲というものは、恐らくは誰にでもあるものなのだと思う。そして、意外とそれは、傾聴して聴き込んだものではなく、季節の変わり目だったり、人生の転機だったり、そんな普段の生活に変化が起こるその時に、何気なく聴いていた一曲だったりするものだ。その曲を聴くたびに、そのメロディーにあわせて、当時のうれしい思い出・ほろ苦い思い出が蘇ってくる。

何かに変化を起こそうとする際、そこには必ず大きなエネルギーを必要とする。
今まで慣れ親しんだ生活が、これからの新しい生活へと変化し、再びその新しい生活に対応するのはとても大変なこと。体力的にも精神的にも。もちろんそこには、これからの新たな生活に対する大きな希望もあるものの、それ以上に大きな不安もある。人生における節目であり分岐点。

何気なく「風信子」をずっと聴いていた。とても大きな力を貰った。

やわらかいメロディーと歌声。だけど、そんなやさしいメロディーと歌声が、逆にボクに強い気持ちをくれた。決して応援歌といえるような歌詞ではないのだけれど、そんな歌詞が、これからの生活に立ち向かう勇気をくれた。

ありがとう 私はいつか私らしい風になる
ありがとう あなたがくれたすべてに ありがとう

これから先何十年たっても、ボクはきっとこの「風信子」を聴けば、今この時・この瞬間を思い出し、そしてどんな時にでも、再び力強い気持ちになれるのだと思う。こんなにも素敵な歌を聴かせてくれたあゃゃと、こんなにも素敵な曲を作ってくれた谷村さんに、ボクは心からこう言いたい。

ありがとう あなたがくれたすべてに ありがとう

と。




引越しめんどくせえー。
(4)

悟りの境地
個人的な事情から、ここ数日間は、ハロー関連にはほとんど触れていない毎日が続いている。結局「ミニモニ。でブレーメンの音楽隊」の最終回も目にすることが出来なかった。

一体どんな結末だったというのだろうか。最終回、ミカさんはちゃんと出演したのだろうか。そして、本当の意味でミカさんも「ミニモニ。」に仲間入りすることが出来たのだろうか。そもそもNHKのスタッフは、ミカさんがミニモニ。のリーダーであることを承知しているのだろうか。ひょっとしたらただのエキストラだと思っているのではないだろうか。そんなことを考え始めたら、居ても立ってもいられなくなってくる。

などと言いつつ、実はこの番組はすでに何度か見逃しており、途中でドラマの展開がさーっぱり分からなくなってしまったので、以前に「このドラマ面白いよシャッハ――――ッ!!」だなんて威勢良く言っておきながら、随分と前にこの番組の存在自体を、ボクは記憶の彼方に葬り去っていたのだった。ミニモニ。でブレーメンの音楽隊?しらな〜い。

…DVD買うのかオレ?

ところで、ハロー関連に触れていない毎日が続けば、このままヲタとしての自分もフェードアウトしてしまうのだろうか などと不安に思っていたら、実はそんなことはないということに気がついてしまった。逆にその思いは強まる一方。現に今の自分は、今日のハロモニが楽しみで楽しみでしょうがないという、かなり特殊な心理状態に陥っている。こんな気持ちは、モーヲタなりたての頃以来であり、とても新鮮だ。

こんな心理状態などは、「人間」としては末期的な状態といっても差し支えないとは自分でも思う。しかしこれは同時に、また新たな気持ちでヲタが出来るところにまで来た!来てしまった!ということをも意味するのではないか。どうやら悟りを開いたらしい。ヲタとして開眼したのだ。
そう言えば最近は、安藤美姫というフィギアスケートの選手が、いけしゃあしゃあと「ミキティ」と呼ばれているのを目にしても、鼻で笑えることが出来るようになった。やはり悟りの境地に達した人間は器が違うのだ。ふふん?

ここは是非とも皆もそうした方がいい。
ヲタとして、みっともなくがっついていては、いつまで経っても悟りなどは開けないのだ。それではいけない。そんなことをしているから、コンサの合間にステージ袖で「大の大人が馬鹿っぽくて、ほんっとおかしいし、そもそもキモイんだよねチンカスヤロウどもが。」などと言われてしまうのだ。そしてもちろん悟りを開いたボクは、これ(チンカス)には当てはまらないのである。当然である。
(5)

得意なことよりも「好きなこと」がいい
「子猫ちゃん」などという思わせぶりなチーム名でスタートしたにもかかわらず、その実どこをどう見ても全く子猫ちゃんっぽくはなかったハロプロフットサルチーム。とんだ肩透かしを食らってしまったので、この心の傷はいつまでも癒えそうにない。なぜ子猫ちゃんのカチューシャはつけないのか。年末の歌番組におけるコスプレは、てっきり前フリだと思い込んでいたというのに。

えりにゃ〜
れいなにゃ〜さゆにゃ〜
次からは是非、この様なユニフォームになることを期待したい。

さて、そのフットサルチームは、今回晴れて公式戦デビューと相成った。結果は2戦続けて大敗を喫したらしい。俄仕込みのアイドルチームが、毎日練習をしているチームに、おいそれと勝てるようなものではない。ハロモニでもこの試合の様子は放送していたが、数分の映像でもその実力差は歴然としていた。試合結果は至極妥当だとは思う。

しかしながら、やはり冷静に考えてあまりにも解せないことが一つだけあるのだ。
それは、「なぜこの人達はこんなことを真剣にやっているのだ?」ってこと。「仕事だから。」というのが一番の答えなのだろうが、たかがそれだけの理由でここまで真剣にフットサルなどに打ち込むことが出来るのか。恐らくこれは彼女達に、「与えられた仕事は、どんなことであれ、必ず真面目に真剣に取り組む」という心構えが常にあるからこそ。

ところが、スポーツというのは、他人から「やれ。」といわれて始めるものではない。自分の意志で「やりたい。」と思うからこそ始め、辛い練習であっても技術鍛錬に打ち込み、そしてその日々の成果を試合で試すというのが、本来のあるべき姿のはずだ。彼女達がやりたいことは、少なくともフットサルではないだろうし、仕事として義務感でやっている姿を見たって、応援する気持ちなどは生まれやしない。ハローのメンバーがフットサルをしたところで、得られるものといえば「色々とやらされて、アイドルも大変だねー」といった世間からの嘲笑と、同情ぐらいなものだ。

これはスポーツだけに限った話ではない。何事も「好きなこと」を一生懸命にやっている姿があるからこそ美しく、見る人々の心を引きつけ、そしてそこに感動が生まれるのだと思う。へたくそでも「美しく輝いている」のは、「好きなこと」をやっているからこそ。そしてこれはかつて、「愛あらばIT'S ALL RIGHT」に対して、つんく♂自身が口にしていたコメントだったはずだ。

ただ、そんな中でも間違いなく彼女達は、相手チームに勝つという気持ちを持って、練習であれ、試合であれ、真剣にフットサルに取り組んでいるのであろうし、そんな姿はとりわけ純真であり、いつものことながらこの姿勢には頭が下がる。しかし、そんな気持ちは確かにあれど、やはり彼女達が真剣にフットサルに打ち込んでいる姿を目にするたびに、皮肉にもボクの心には、感動ではなく、しらけと痛々しさだけが残ることになる。彼女達が真剣にフットサルに取り組めば取り組むほど。

間違いなく色々な事情がここには存在するのだろうが、大人の都合によっていいように振り回されている彼女達を見ていると、いたたまれない気持ちになってくる。今本当にやるべきことはフットサルなのではなく、もっともっと他のところにあるはずではないのか。もちろんそれは「猫耳カチューシャ」でもないのだ。
(6)

ゴロゴロこそ究極の省エネ
ボクの潜伏期の生活と言えば、藤本の加入発表当時や、辻加護の卒業発表当時と同様、やはり今回の飯田・石川卒業発表も、見計らったかのようにボクがネットから遠ざかっている時の発表であったことから、こりゃ完全につんく♂のヤロウに行動パターンを読まれているに違いない!こりゃ完全にマークされているに違いない!などと察し、戦々恐々とする日々であったわけなのだが、そんな命懸けの激動の2ヶ月間を端的に一言で表すと、ゴロゴロ。ボクは全身全霊を込めて、主にゴロゴロしていたのだった。まあ、実に爽やかな生活だとは思う。

そんな爽やかな生活以上に驚くべくは、実は前回の更新時の画像。なんだこれは。一体いつの画像なのだ。このロッキーズ・エンジェル三人集が、こんなにも萌え萌えなコスプレをお披露目した時なんかがあったのか。自慢じゃないが全く記憶に無いわけだが、ついついごろにゃ〜ごなどと言ってしまいそうになる。まあ、実に爽やかなごろにゃ〜ごだとは思う。

しかし、こんな究極の萌え萌えコスプレイヤーズを三人も擁していながら、何故モーニング娘。は日々衰退していくのか、モーレツに不思議ではある。それは恐らく、この正のエネルギーを全て食い尽くしてしまうような悪玉菌が、娘。内に潜んでいるからに違いないわけだが、誰もそれがマコだとは言っていない。これっぽっちも言ってやしない。勝手に決め付けられてしまっては、たとえ爽やかと言えど困るというものだ。いい加減にして欲しい。

さて、残念ながら今となっては、「モーニング娘。から誰それが卒業するんですってよー」的なトピックは、世間に対して何の効果も持たないわけで、もはやヲタですら若干聞き飽きてしまっているような現状、一般人にとってみたら果てしなく興味の湧かない出来事に違いない。まして、モーニング娘。という言葉を久しぶりに耳にすれば、必ずと言っていいほどそれは「卒業」か「加入」のどちらかの話題なのだ。今となっては、ヲタ以上に一般人の方が卒業ネタはすでに身体に刷り込まれている。

もちろんボク自身、単なる話題作りのために卒業を敢行しているなんてことは露にも思っていないわけだが、娘。はすでに卒業の話題ですら世間から飽きられてしまっているというこの現状を、やはり素直に受け入れるわけにはいかない。ここでおめおめと引き下がるわけにはいかない。何としてでも再び、一般人という名のつまらないゴミのような人間どもに、「誰それがモーニング娘。卒業だよ〜ん」といった話題で、「えっ!本当に!う、うん。」という、トロピカ〜ルなノリをさせなければならないのである。

実はボクはこの潜伏期間中、ただ単に毎日ゴロゴロしていたわけではなかったのだ。再び娘。が注目されるような、そして聞いた人間が思わず驚いてしまうようなドッキドキな卒業というものを、ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロしている合間に適当に考えていたのだ。


つんく♂「みなさんこんにちは!プロデューサーのつんく♂です!ここでみなさんに発表がありまーす!なんと、なんと!またまたモーニング娘。から卒業者が出ちゃうんで〜す。イェイ!ヒューヒューだよ!ヒューヒューだよ!」

一般人「ふ〜ん。」

つんく♂「なんと、その今回の卒業者とは………モーニング娘。全員でーす!

ボク「それって解散じゃーん!」(狙い済ましたかのような歯切れのいいツッコミ)

一般人「へー。マジでー。ふ〜ん。」(やっぱり驚かない)

モーヲタ「ヒィ〜〜〜〜〜〜」(卒倒する)

つんく♂「(これがロックや!これがロックなんや!)」(←バカ)

はたけ「仕事欲しいなあ〜」(切実)


娘。が解散するその時は、きっとつんく♂はこのネタをパクってくるんだろうなあと、ボクは割と本気で思っていたりする。

えっと、ただいま。
(7)

正しい安倍なつみプロデュース法
安倍なつみ2ndシングル「だって生きていかなくちゃ」のプロモーションビデオを見た。

「だって生きていかなくちゃ」PVより「だって生きていかなくちゃ」PVより

この曲、日テレ系ドラマ「仔犬のワルツ」の主題歌らしいのだが、以前にも宣言していた通り、ドラマ見ないよ派のボクは、もちろんこのドラマも見ていないため、曲を聴くのも実は今回が初だった。

プロモ自体の出来栄えと言えば、実に凡庸であり、正直言って面白くも何とも無い。プロモ全体を通して陰湿な雰囲気が漂っているわ、何となくメロンの「チャンス of LOVE」のプロモのパクリのような気もするわ、おまけにその「チャンス of LOVE」を10倍ぐらいダサくしたレベルだわで、驚くほどさんざんであった。もうさんざんであった。

それ以前に、曲自体がえらく普通であり、特徴的なところが何も無いのが問題だ。全ての元凶はここにあるのだと思う。ドラマの主題歌ということもあり、このような暗い感じの曲に仕上がったのかもしれないが、この曲では安倍なつみの良さを引き出すことは出来ない。前回の「22歳の私」の時もこの暗い曲の雰囲気は似たようなものであり、最近の安倍なつみには、これらの曲に見られるような「悲しみ」やら「孤独」やらのイメージが定着しつつある。1stアルバムのタイトル「一人ぼっち」などは「孤独」のいい例である。何故こうなるのか。

もちろんこれらは、つんく♂の安倍なつみに対するイメージによるところが大きい。つんく♂にとって安倍なつみとは、「根暗なキャラクター」なのである。だからこそ安倍に提供する曲は、放っておけば今にもカビが生え出してしまいそうな感じの曲ばかり。どれもこれも、ジメジメとした陰湿な曲となってしまうのだ。

しかし、ある意味においては、この安倍に対するつんく♂のイメージは、的を射ているのかもしれない。安倍に対し、「根っからの明るい子」などといったイメージを抱いている人は恐らく一人もいないのだろう。「常に悲しみを身に纏っている」というのは、多くの人が抱くデビュー当時からの安倍なつみに対するイメージであると同時に、彼女自身の本質でもある。ただ、それは彼女の本質であれど、決して世間にアピールしてまで「ウリ」にしていいものではなく、安倍なつみが好きという人間が、こっそりと嗜好として楽しむべきアングラ的な要素である。

安倍なつみには、何よりもウリにすることの出来る「笑顔」という素晴らしい資質がある。当然「だって生きていかなくちゃ」のような曲調では、この「笑顔」を生かすことは出来ない。何故つんく♂は、安倍の唯一の武器ともいえるこの「笑顔」を前面に押し出そうとはしないのか。どんなに切れ味鋭い刀でも、こまめに磨いておかなければそのうち使い物にならなくなる。つんく♂のヤロウは、このまま安倍と、そして安倍の「笑顔」を飼い殺す気なのではないだろうか。

安倍本人に落ち度は何も無い。問題は全てつんく♂のプロデュース方法にあるのだ。
つんく♂は、安倍なつみに対するプロデュース法を完全に見誤っている。一からしっかりと考え直してもらわないと、こっちとしても困るのだ。このままたいせーに回されるなんてことになったらどうするのだ。このままたいせーに回されるなんてことになったらどうするのだ!そうはならないためにも、つんく♂には、安倍なつみという素材をよく吟味し見極める必要がある。何度も言うが、「根暗」はタレントとしてウリにしてはならない要素だ。

前回の「22歳の私」は、曲調はいただけなかったが、「地下鉄は複雑すぎるわ 迷ったり乗り継ぎでミスしたり」という部分の歌詞は高く評価することが出来た。これはかなりバカっぽくてよろしい。非常にバカっぽくてよろしい。ここは安倍なつみの本質を見抜き、さりげなくアピール出来ている、唯一と言っていいつんく♂のグッドジョブな部分だ。「笑顔」を前面に打ち出し、そこにこの様な「バカっぽさ」を付け加えて彩りを添えることが、安倍なつみの魅力を思う存分引き出すことの出来る唯一の手段なのだと思う。

ボクの理想を言わせてもらえば、「母と娘のデュエットソング」をバカっぽ〜く一人で歌うこと。
これ、想像しただけでも吹き出してしまった。
(8)

サディスティック 浮かれモード
今日のマコも文句なしに可愛かったよネ!ネ!ネ!

の一言に尽きる今回のハロモニだったわけだが、そんなハナクソ以上にどうでもいいことよりも、唐突に言わせていただくと、亀井絵里である。とにかく亀井絵里なのである。今回の番組内容は「ハロモニ。アカデミー」と称し、グルメリポートやら突撃リポートやらを実際にヨネスケから学んでしまおう!という、まあ正直どうでもいいような企画内容であったのだが、そんなことよりも、やはりとにかく亀井えりりんその人だったのである。

何ゆえにボクがここまで興奮気味にえりりんと叫んでいるのか。
その理由は、えりりんが企画内の「まずいグルメリポート編」にて、青汁をおいしそうに(尚且つかわいらし〜く)飲むということに挑戦したのだが、これがボク的にはビンゴォォォォ――――!!だったことにある。

その前に辻ちゃんが挑戦していた「グルメリポート編」は、美味しい食べ物を食し、そのおいしさを視聴者に伝えるという、まあありきたりのグルメリポートであったのだが、この美味しい食べ物の方ではなく、敢えて不味い青汁を苦悶しながら食している、そのえりりんの姿が実にかわいらしい。だから、ビンゴォォォォ――――!!なのである。

いや確かに、美味しい物を口にし、「わー。おいしぃー。これとってもおいしぃですぅー。」これでもいい。確かにこれでもいい。えりりんが美味しい物を食べてうれしそうにしているのなら、それでもいい。だがしかしそれ以上に、不味いものを一生懸命食してリポートしようとしているその姿が、なんだかもう、ボク的にはたまらなく萌える要素なのだ。もっと言うと血が滾るのだ。

リポートとして実際に発したコメントなんか、はっきり言ってどうでもいい。ほとんど「おいしいひぃ〜おいしいひぃ〜」しか言ってなかったし。何がどうおいしいひぃ〜のか(まあ、実際には不味いんだけどね)、全く伝わってこない。正直言って、アホ丸出しのコメントだった。いやしかし、そういったところがまた、なんだかもう、こう、たまらなく萌えるところだったりするのだ。

今回のハロモニスタッフは、実に素晴らしい仕事をしでかしたと思う。ボクは番組スタッフに心から賞賛の拍手を送りたい。この「まずいグルメリポート編」に亀井えりりんその人をずばりチョイスしたのは、超ミラクルファインプレーである。これはもしかしたら、ハロモニ史上最大の功績なのかもしれない。

今回のハロモニの、このサディストぶりにはさすがに恐れ入る。しかしボクはこれを糧に、明日からまた浮かれながら生きていこう、と強く心に誓ったのだった。
(9)

ボクパピコ
驚きである。これは驚きである。とにかく今のボクは驚きを隠せないでいる。

♪ちゅ〜ちゅ〜ちゅぶりら ちゅぶりらら〜 といえば、あゃゃ出演のパピコCMであるというのは、いたって健全なる真人間であれば瞬時にわかってしまうことだとは思うのだけれど、「パピコと言えばワタクシeisei、ワタクシeiseiと言えばパピコ」という程、実はボクとパピコとは切っても切れないような縁であるということは、もしかしたらそこのあなたも分からないのかもしれない。
しかしボクと言えば誰が何と言おうとパピコなのである。

「ボクと言えばパピコ」。結局これって言うのは、言ってみれば「ボク=パピコ」ということであり、つまりそれは、もちろん「ボクはパピコである」ということを意味している。そう、ボクはパピコなのだ。「ボクパピコ」なのだ。

ここで少し考えてもらいたい。
そのパピコのCMをあゃゃがやっているのだ。どうだろう。果たしてどう思われるだろう。とどのつまりそれは、ボク自身を、このボク自身をあゃゃがCMしているということに当然なってしまうのではないのか。冒頭の驚きの理由はまさにこれである。これを驚きと言わずに果たして何を驚きと言うのか。しかもCM中ずっと吸っている。あゃゃってば、ボクをずっと吸っているのだひゃ〜〜ん。

これを驚きと言わずに何を驚きと言うのか!

さらにそんなボクは、実は以前にTV番組内であゃゃからさりげなく愛の告白をされてしまったという経緯をもっている。覚えている人は覚えているのだろうけど、夏男リリースで出演した堂本兄弟にて、「さわやかな人が好きなんです」と、明らかにボクに対してとしか思えない、間接的な愛の告白をされてしまったのである。そこまで強固な繋がりがある上に、ここに来てたたみ掛けるようにパピコ繋がりだ。何度も言うが、「ボクパピコ」なのだ。これはちょっとヤバイぐらいシャレになっていない繋がりっぷりである。そうは思わないだろうか皆さんはそうは思わないだろうか。

くやしかろうさ。そりゃーくやしかろうさ。ここまで圧倒的な差をまざまざと見せ付けられたら、そりゃーくやしかろうさ。君達が、そのいつものしがない顔をしかめながら、ディスプレイの前で唇を噛んでいる姿が、ボクには容易に想像がつくさ。ふふん?

冷静に考えて、ボクとあゃゃがここまで色々とバッチリあってしまうのは、もはや尋常なことではない。これは尋常じゃない繋がりであって、ボクがここで、「明日から松浦亜弥を名乗って生きていくぅー」とかわいらしく言ってしまっても、全く問題ないぐらいのレベルなのだと思う。

ボク明日から松浦亜弥を名乗って生きていくぅー。

あー、しかしどうしよー。ここまで向こうからあからさまなアプローチがあるのだから、こっちとしてもやっぱりそれに応えてあげた方がいいのかしら。ここは漢らしく、あゃゃの愛を受け止めてあげた方がいいのかしら。そう言えば、この前のライブにてあゃゃと目がガチコーン!合ってしまったのも、今思えばアイコンタクトによる告白だったのきゃなー。あゃゃからの愛の告白だったのきゃなー。まいっちゃうなあー。愛コンタクトーみたいなー。それって愛コンタクトーみたいなー。あはははあはははあははははーあーむなしい。
(10)

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